つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

あの日のスイッチ。

2024年05月01日 10時00分00秒 | 日記
                            
本日(2024/05/01)「令和6年能登半島地震」発災から4ヶ月が経つ。
節目にあたり、各種メディアやネットで話題になる機会は少なくない。
当然だが、その露出回数、度合いは徐々に縮小している。
時は決して止まらず、何事も次第に過去へと押し流されてゆくのは避けようがない。
僕自身も以前に比べれば、地震について考えていない時間が増えた。

だが「あの日」--- 僕の心には「スイッチ」ができた。
「あの恐怖」を思い出させる真にもって厄介な装置である。
・何度も襲い掛かってくる大地の震え。
・何度も繰り返し耳にした大津波警報。
・音を立てて軋む中で物が倒れる光景。
・ただ無事を祈るしかない無力な自分。
--- それらの記憶は、呼び覚ますと少しだけ動悸を早くする。

『おい、忘れるんじゃねえぞ』

まるで普段は心の牢獄に閉じ込めた魔物が、そう囁いているかのようだ。
奥能登全域や、液状化が激しい隣町の比ではないが、
わが津幡町でも散見できる地震の爪痕に近づいた時などに、
突然スイッチが入ったりする。




(※津幡町内跨線橋のひび割れ 2024/04/28撮影)

令和6年4月末現在、
石川県内の避難者数内訳は、学校や公民館など1次避難所に2千人以上。
被災地から離れたホテルや旅館など2次避難所に2千人近く。
断水は、被害が大きかった奥能登のおよそ4千戸あまりを除き解消。
しかし家屋内の配管損傷が激しく通水できないケースが多い。
また、自治体が所有者に代わり建物を解体・撤去する「公費解体」は、
審査・申請があまり進んでいないという。


(※津幡町役場裏で給水に並ぶ行列 2024/01/05撮影)

さて、先日、輪島に住む知人女性と電話で話をした。
度々スマホに登録してある番号をタップしようとしたが、躊躇していた。
果たしてどんな状況にあるのか?
そもそも無事でいるのかどうか?
安否も確認できていなかったが、SNSが更新されているのを見て電話をかけた。
すると、今も避難所にいるとの事。
復興はおろか復旧にも程遠い暮らしぶり、発災からの心情を聞き、胸が痛んだ。

話を終える間際、
大変な状態に置かれているにも拘わらず---
『わざわざありがとう。嬉しかった。健康に気を付けて』
---と優しい言葉に落涙しそうになり、
慌てて素っ気なく電話を切ってしまった。
そして「スイッチ」が入った。

牢獄の鎖から解き放たれた魔物が、脳裏を暴れまわる。
周囲が揺れているような気がしたのは、そいつのせいばかりではない。
嗚咽を漏らす僕の身体が小刻みに震えていた。
                           

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2 コメント

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Mrs. (玲子H)
2024-05-01 20:29:37
りくすけ様 私もこの1週間前に初めて輪島の同級生が無事でいることを知り、あれ以来埼玉県に避難していると電話で話し合えて大喜びしました。
私にとっては今年の誕生日のプレゼントみたいでしたが友達にはそれどころじゃなかったでしょう。
80歳と82歳の夫婦で家は半壊、二人の娘は結婚していて家を継ぐ人もいないので、家を再建できるか?
難しいところです。あと何年かかって輪島が復興するか?地震は本当に怖いですね。
玲子H様へ。 (りくすけ)
2024-05-02 11:31:24
コメントありがとうございます。

輪島の同級生の方、
無事が確認できて良かったですね。

記事本編で書いた僕の知人の家も大分ダメージを受けているとの事でした。
彼女のご家族は県外へ避難しましたが、
ご自身は仕事があり輪島に一人残って避難所暮らし。
もし仕事がなくなれば、残る理由もなくなり、
自分も輪島を離れるつもりだと言っていました。
明るい未来が見えない被災地では、
やはり行く末に迷いと戸惑いが多いようです。

過疎化、高齢化の進む地域で起こった大地震。
復旧・復興は道険しく生半可ではありません。

では、また。

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